そうだったらいいのにな Episode 3「エンゲージリング」
ナースステーションの前を通った時、サキは看護婦達の話を何げなく耳にした。
「それでねぇ、３０３の神さんが……」
前を通った一瞬の事。後は聞き取れなかった。まさか戻って、３０３の神さんがどうしたんですか？ と尋ねる訳にもいかず、こっそり立ち聞きするにも廊下を行き交う他人の眼が…。気になってしかたなかったが、そのままサキは平常を装って、３０３号室へ足を進めた。
確かに、絶対に、聞こえたのは“３０３の神”だった。
（ったく。また、看護婦さんに手ぇ出したな？）
あたし！という者がいながら、昔の“クセ”が抜けないなっ！と、病室のドアを、コンコンコンッ、と勢いよくノックした。
「あたし。入るよ」
ベッドの上で起きて本を読んでいた神は、入ってきたサキをマジマジと見て驚きの表情を見せた。
「おや？ 珍しい。学校に行っていたのか？」
サキはセーラー服姿で鞄を持っていたからだ。
「沼さんに、『卒業が決まっているからって、サボるな！ 出席日数くらい、増やしとけ』って言われてさぁ」
仕方なく登校した、という言い方。
「それは良いことだが、早退か？ 時間的に早いじゃないか」
神はチラッとオーバーテーブルに置いてある時計を見た。
「今日から中間テストでね」
テストと言う割には、なにやらサキの顔は明るい。いつからサキは定期テストを克服したのか、離れていた期間にどんな変化があったのか、神は興味津々にサキの話の続きを聞いた。
「なんと、沼さんがテストを『受けるだけ』で単位取れるように手配してくれたからさぁ、もうラクチン、ラクチン♪ 名前書いて、てきとーに答え書いて出せば、それでＯＫ♪」
ベッドの端に腰掛けて、Ｖサインを出し、ふふんっと笑うサキ。
「えっ？ そ…それは……。沼さんも、ご苦労だったなぁ…」
卒業の事だけでも相当、骨を折ってもらったのに、テストまでとは。これは菓子折の一つや二つじゃ足りないぞ、と久しぶりに、神は“保護者”の気分を味わった。
「それから、『仲人は俺がやってやるから、他に頼むなよ』だってさっ。自分が由梨さんと結婚出来たもんだから、仲人やりたくて、ウズウズしてるみたいだよ」
「ハハッ、そうだな…。沼さんなら、おまえも文句ないだろう？」
「そりゃ、まあ…ね」
「いずれ…といっても退院してからだが、正式に頼みに行くからって、言っておいてくれ」
「ＯＫ。ほら、そろそろリハビリの時間でしょ。行こう」
肩の骨折が完治したので、医師のプログラムに従って、毎日リハビリに励んでいる神。補助役として、たいがい、サキが付き添っていた。
リハビリから戻ってくると、部屋の前で見慣れない男性に出会った。きっちりとスーツを着こなした、30代半ばくらいの男性。
「良かった。見えなかったので、失礼するところでした。わたくし、三ノ輪宝石外商部の笹波と申します。社長より、申し付かって参りました。これをどうぞ」
笹波は手に下げていた、MINOWAの文字がデザインされた小さな紙袋を神に渡した。
「社長が『無理をせず、療養してください』と申しておりました。それでは、わたくしは、これで失礼させて頂きます」
笑顔と共に軽く頭を下げ、笹波はエレベーターの方へ歩いて行った。
「何、これ？ 三ノ輪宝石って、光広氏からの見舞い？」
笹波を見送って、サキは聞かずにはいられなかった。単なる見舞客でなく、三ノ輪光広からの使いで紙袋を届けに来た、というのがイレギュラーなことで心に引っ掛かったからだ。
「まずは、中へ入ろう」
予想通りの反応を見せたサキに、内心ホッと安心した神は、この後の更なるサキの反応が楽しみで、自然と笑みがこぼれてきた。
二人並んでベッドに腰掛けると、神は紙袋の中から、ワインレッドの地色にゴールドの文字でMINOWAと箔押しされた小箱をサキに渡した。
「開けてごらん」
宝石店からの小箱。サキは“まさか？”と思った。
「まだわからないのか。『給料の三カ月分』だ」
神が少し照れくさそうに、巷で言われている隠喩を口にする。
サキの指先は震えていた。小箱のふたを開ける。箱の地色と同じワインレッドの、楕円形の宝飾ケースが入っていた。ふたの中央に“Ｍ”をモチーフとした、三ノ輪宝石店のマークが、やはり金色で記されている。
「これ……」
指先の震えは止まらず、心臓の高鳴りも増して、サキの体は硬直した。落ち着こうと大きく二度、深呼吸をして、意を決して箱から宝飾ケースを取り出す。
ずっとサキの様子をうかがっていた神は、顔から笑みが絶えなかった。どうも予想よりも大きく感動してくれているようで、愛おしくてたまらなかった。
サキがついにケースのふたを、そーっと開ける。キラキラ☆輝く、ダイヤモンドの指輪……。
「婚約指輪だ。二週間くらい前だったか、おまえのいない時に光広氏が見舞いに来てくれてね。ついでに、頼んでおいたんだ。サイズも測ってあったし。９号だそうだ」
キラキラ☆ キラキラ☆ サキは我を忘れて、ケースの中で輝く指輪に見入った。
「はめてみるか？」
神はサキの両手に包まれていた指輪ケースを、自分の手に持ち替える。そっと指輪を取り出し、まだ動きのぎこちない左手で、サキの左手を取ると、薬指に指輪を通した。
「早く『予約』しておかないと、誰かに『横取り』されてからじゃ、遅いからな」
死の淵をさまよった際の夢。サキがムウ＝ミサにさらわれていく、あの悪夢。幸か不幸かムウ＝ミサの消息は、まだわからないままだが。
「あの“夢”のこと、気にしてるの？ そういうことはミサが目の前に現れてから心配しなよ」
神はムウ＝ミサの部分だけサキに話していた。まだサキには聖良やカテリーナのことを話していなかったからだ。
「…今頃、どこでどうしているんだろうね、ミサ……」
サキは左手を動かした。手のひらと甲を交互に見たり、上げたり下げたり、いろんな角度から薬指にはめられた指輪を眺める。サキにとってもムウ＝ミサの消息は気がかりなことの一つだったが、かといって再び目の前にミサが現れたとしても、揺れるのは結婚式に招待するかどうかの気持ちだけで……。
「あたしのこと、その…好きでいてくれるの……そんな“物好き”ミサと…神だけさ……」
そしてミサのいない現状では……。
「だから今は、神しかいないよ！」
心なしかサキの顔が赤らんでいた。そして神の方へ体を向き直して、今の素直な気持ちを伝える。
「ありがとう…。エヘッ♪ うれしい」
神の右手が伸び、サキの頭をグイッと引き寄せる。二人の顔が近づき唇が重なる寸前、なぜかサキがストップをかけた。
「っと、ちょい待ちっ！ だったら、これからは看護婦さんに手を出すのは、やめようねっ！」
目の前で嫌味たっぷりの言葉と笑顔を見せられて、神は大慌て！
「なっ、何の事だ？」
「知らばっくれても無駄。聞いちゃったんだよ、看護婦さん達が、あんたの噂してるの。いくら肩が良くなってきたからってさぁー」
「そっ、それは誤解だっ！」
「ここは『三階』だもんねぇー！」
ヤバイッ！ これは長く続きそうだっ！ と予想した神は、自分の唇で、サキの“攻撃”を遮った。
＜エンゲージリング ＥＮＤ＞