そうだったらいいのにな Episode 1「闘いの果てに」～７：明日へ～
深い闇の中、神は立っていた。何も見えない、何も聞こえない、誰の気配もしない。ここはどこだ！ と叫んでも、声が出ない。確かに叫んだのに声を失ってしまったのか、発した途端に闇に吸い込まれてしまうのか、自分の声が聞こえない。
無音の、深く暗い闇の中に、神は立っていた。
すると突然、目の前に光が差した。舞台の上から強いスポットライトが当たっているような、その場所だけが照らされている。長い間の暗闇に慣れた目では、手を伸ばせば触れられそうな位置の光でも眩しさを覚え、反射的に目を閉じて左手で光を遮り、顔を背けてしまったが、それは何の光なのか？ そこには暗闇からの出口があるのか？
知りたくて恐る恐る目を開き、体を向き直して正面から光に挑んだ。光の中央に誰かいる。後ろ姿から、ゆっくり神の方へ体の向きを変える。その姿、その顔、かつて将来を誓った、聖良……。
初めて愛した女性は、光の中で、優しい笑みを浮かべている。神は右手を伸ばして、聖良を引き寄せようとする。聖良も神に向かって左手を差し出した。
神が聖良の手を取った瞬間、それまでの清楚で愛らしい聖良から、邪悪の塊のような悪魔顔の聖良に変貌した。神は思わず身を翻す。光は聖良の悪の形相と共に消えていった。
再び闇に包まれた。神は静かに目を閉じ、無限に広がるかのように思われる暗闇の空間に身を委ねた。すると背後で何かを感じた。振り返ると、遠くに先程とは対照的な、ボーッとした微かな光が浮かび上がっている。やはり人影が見えた。それが誰なのか、近付いて確かめようと一歩、二歩、足を進める神。
光に近付けば近付くほど、カメラのピントが合っていくように、人影は輪郭を増す。神の歩数に合わせるように、光の中の人物も、後ろ姿からゆっくりと振り向いて、顔を見せた。イタリアで触れたカテリーナだった。聖良との関係に比べれば、刹那な触れ合いだったが、神の心に、強烈に刻み込まれている。
神は左手を差し伸べた。しかしカテリーナは、悲しい顔をしたまま首を横に振り、何も言わずに消えていく……。
カテリーナが消えると間髪を入れずに、今度は暗闇総てが消え去り、一転して眩しい程の光の中に神自身が包まれた。どこからか自分を呼ぶ声がする。辺りを見渡すと、サキが笑顔で元気よく駆けて来る。神は両手を広げ、サキを受け止める準備をした。
サキがフワッと体を浮かせ、神の胸に飛び込む寸前、横から邪魔する男が一人。ムウ＝ミサが無理やり、サキを引っ張っていく。抵抗してもがき、神に助けを求めるサキ。しかし、神は足が動かせなかった。鉛のように重い足は、今立っている場所から一歩も進むことが出来ない。必死に手を繋ぎ合おうと、サキも神も手を伸ばすが、触れることなく引き離された。
サキを抱きしめたムウ＝ミサの、勝ち誇ったかのような高らかな笑いと共に光は消え、暗闇と静寂が戻った。落胆する神の心に、孤独の恐怖も芽生える。闇に押し潰されそうな神の前に、再びスポットライトのような光、ボーッとした淡い光、全体を照らす光が繰り返された。ビデオを巻き戻して同じ場所から再生させるように、全く同じ“映像”が何度も神の前に映し出された。
何十回と繰り返される同じ場面に、神の心は麻痺し、無気力が身体全体を支配し始めていた。このまま、闇の中で朽ち果てるのか？ どう足掻いても闇の外へ出るのが無理ならば、それもよかろう。神は初めて、その場に腰を下ろした。体勢を変えても周りは変わらずに、自分の愛した女達が現れては消える。もうどうでもいい、神は身体を倒して仰向けに寝転がった。
仰ぎ見た闇の上には無数の光が散らばっていた。
（星空…？ まさかな…気づかなかった？ いや、そんなはずは…、それとも突然…？）
星の光なのか別の何かの光なのか、漆黒の闇に中にキラキラ輝く部分を見つけて、神は無意識に右手を伸ばした。思い切り、伸ばせる限界まで伸ばすと、指先に何か触れた。柔らかく、暖かい何かに。
（…何…だろう……）
指先に触れた何かを掴めれば、この闇から出られる気がした。根拠はない、そんな気がしただけだったが、神は右手の指先に神経を集中させて探ろうとした。
（くっ…足の次は、手なのか？）
今度は手が動かせなくなった。伸ばしたままの形で、右手は固められてしまった。 急いで起き上がろうとしても、身体の自由も利かなくなった。どんなに力を入れても、ピクリとも動かない自分の身体に、神は匙を投げた。
（絶望…か……）
無気力が再び神の身体を支配しようとしたその時、固まった右手が暖かい物に包み込まれた。この感触は、人の手だろうか。それに声も聞こえる。
（サ…キ……？）
神の心は絶望から希望へと変わった。その瞬間、もの凄い力で右手が引っ張られ、輝く無数の光に向かって、光速のような速さで上へ上へと身体が引っ張り上げられた。
光の群れを突き抜けると、白い世界が待っていた。闇から明るい世界に来て、最初はぼんやりしていた視界が、徐々に明確になっていく。ここは、どこだろう？ 視線を動かして、辺りを見る。白い…天井？ ナースキャップに点滴の瓶。さらに視線を落とすと、涙を流す、サキの顔が……。
「もう安心です。峠は越しました」
担当医はニッコリ笑った。看護婦達も笑顔でサキを見た。よかったわね、ありがとうございます。明るい言葉が交わされ、今まで漂っていた緊張感は薄れ、和やかな空間へと変化していった。
「神！ わかる？ あたしだよ、サキだよ」
サキは神の右手を握ったまま、うれし涙に濡れた顔で神を覗き込む。神はサキの手を強く握り返し、途切れ途切れに声を出して、自分の置かれた状況をサキに確認した。
「ここは…病院……？ 俺は……助かったの…か……？」
「うん……」
神の顔が見られないほど、あふれるサキの涙。言葉を続けることが出来ずに、神の手を固く握ったまま、一言、答えるのが精一杯だった。
神が再び眠りについた後、どうしても、妹尾に神の“生還”を伝えたくて、サキは看護婦に尋ねた。
「せの？」
「いえ、せ・の・お、です。ヘリコプターに乗っていた…」
「あぁ、それなら、他所の先生だわ。うちは受け入れ専門だったから。ごめんなさいね。私達じゃ、分からないわ」
ここの医師だと思い込んでいたサキは、あの時、ちゃんと礼を言っておけば良かった、と後悔した。
その日の朝刊には、どの新聞にも梁山泊に関する記事は載っていなかった。何一つ、それらしき記事は見当たらなかった。その代わり一紙にだけ、下段の隅に見落とすくらい小さく、「昨日の地鳴りは地震が原因か」という短い記事が出ていた。その中で震源地とされている地域は、梁山泊があった場所。
以後、巷で、信楽老や梁山泊の噂が流れても、マスメディアには一切登場しなかった。
院長の好意で、美鈴と同じ部屋に、サキも二日ばかり（強引に）入院させられ、神の方も経過良好で、手術から三日後、一般の個室へ移された。
＜闘いの果てに ＥＮＤ＞