筆記用具と連絡帳だけの軽いランドセル。今日から新学期、五年生だ。今は軽いランドセルも、帰りには新しい教科書やドリルで重くなる。
クラス替えで、誰と一緒になるだろうか？ 女子ほどではないが、少しのドキドキ感を胸に、運動靴を履いて玄関を出ると、車を出す準備をしていた隣家の母、美波と顔を合わせた。沙紀もいる。恭一郎は二人に朝の挨拶をして、通学班の集合場所へ行こうとすると、美波に呼び止められた。
「今日は先生方への挨拶も兼ねて私が送って行くんだけれど、明日からは一緒によろしくお願いしますね、恭一郎君」
一年前の自分が、そこにいる。転校という初めての経験に戸惑い、不安と緊張があったことを思い出す。今の沙紀も、きっと一年前の自分と同じだろう。
「はい！ 明日からは成美も一緒だし、仲良く行こうね」
恭一郎は快い返事をした。
この地域の小学校では地区ごとに通学班を組んで登校している。児童の人数が多い所は男女別で班があるが、ここは男女混合編成の班だった。今日は入学式で、保護者と一緒に登校する一年生も明日からは、それぞれの通学班で登校となる。恭一郎の妹、成美も明日から一緒だ。
「ありがとう、恭一郎くん。あしたから、よろしくね」
ランドセルを車の後部座席に置いて、沙紀は恭一郎の前まで来て礼を言った。
「イヤー、僕で良かったら、いつでも……」
「ほら忘れ物！ スリッパと体育館シューズ！」
ガチャ！と勢いよく玄関ドアを開けて出てきた恭一郎の母、清音が手にしているのは、持って出たはずの布製の手提げカバン。あ、あれ？ と自分の両手を右、左、交互に見る恭一郎。
「机の上に置きっぱなしだったわよ！」
入学式の支度に追われる清音は、恭一郎に手提げカバンを渡すと、急いでいるのでごめんなさいね、と美波や沙紀への挨拶もそこそこに、家の中に入って行った。
恭一郎も集合場所へ歩き出し、沙紀は美波と車に乗り込んだ。
小学校の正門前には、造花で彩られた「入学式」の看板が立て掛けられ、すっかり準備は整っていた。
昇降口の窓には、三年生と五年生の、クラス分け表が掲示されていた。
「麗奈ぁ～～～」
「あーあ、私たち、とうとう別れちゃったわね、碧～。幼稚園の時から、ずーっと一緒だったのに」
母親同士が姉妹で家も近かったので交流が濃く、小さい頃から大の仲良しで、奇跡的にクラスもいつも一緒だった従姉妹同士の高嶋麗奈と南沢碧は、五年のクラス替えで初めて、一組と三組に離れることになった。
「でも麗奈、良かったね。恭一郎くんと一緒になれて」
碧が麗奈の耳元でささやく。麗奈も碧の耳元に返す。
「まぁーね。それだけは良かったぁー、ほんと」
ちょっと照れの入った笑顔を、麗奈は碧に向けた。
麗奈は三年の時に恭一郎と一緒のクラスになり、スポーツ万能で、端正な顔で、格好いいけど時には間抜けなことをして笑いをとる恭一郎に、秘かに恋心を抱いてきた。
でも、この気持ちは、何でも話せる従姉妹の碧にしか打ち明けていない。
女子には結構人気があって、麗奈以外にも恭一郎を好きな女子は多かったが、その女子たちと群れて一緒に騒ぐことは、麗奈のプライドが許さなかった。いつも無関心を装って輪には入らずに、碧だけに話を聞いてもらっていた。
「あれ？ 何か知らない名前あるよ。藤岡沙紀、って子、ほら、麗奈の一人後ろの子」
「あら、ほんとだ。誰だろ？ 転校生？」
碧が見つけた、沙紀の名。この時点では、麗奈は沙紀に、転校生ということ以外の興味は、特に示さなかった。
恭一郎は自分の名前を確かめると、沙紀の名前も探した。
（転校生だから、ここには載ってないかも？……）
一人ずつ名前を確認していくと、ちゃんと沙紀の名も表に載っていたことがわかった。同じ一組だ。
心ウキウキでスリッパに履き替え、「五の一」の靴箱の、自分の名簿番号が書かれた場所に靴を入れた。
始業のチャイムが鳴り、五の一の担任教師大場が、ランドセルを抱えた沙紀を連れて、教室に入ってきた。
「今日から一年間、みんなと一緒に勉強する大場俊成です。みんなよろしく。そしてこちらは、今日から新しく、みんなの仲間になる、藤岡沙紀さんです。Ｔ市の小学校から転校してきました。みんな仲良くするように！」
大場は黒板に沙紀の名前を書いて紹介する。沙紀も簡単な挨拶をして、ペコリと頭を下げた。
「沙紀さん、あそこの空いている席が、あなたの席です。名簿番号順になっています」
一組は全部で三十六人。教室には一列に六個の机が、六列並べられていた。
沙紀は言われたとおり、廊下側から二列目、前から五番目の空いている席に着こうとした。途中、チラッと男子の方を向いて、この教室に恭一郎がいるかどうか、探す。
窓側から二列目、前から五番目と、沙紀とは対象的な位置の席に恭一郎はいた。いつ気付くか？ と沙紀だけを目で追っていた恭一郎は、自分に気付いた沙紀の視線を捉えて、右手をほんの少し挙げて、小さく振った。
それを見て沙紀はニコッと笑った。
沙紀の微笑みの向こうに、恭一郎。しかも恭一郎は、手を振っている。クラス中が大騒ぎになった。
「藤岡さん、福永恭一郎くんを知っているの？」
「恭っち、あの転校生を知ってるのかよ！」
二人ともそれぞれ、前後左右の席から、質問攻めに合う。
「ええ、家がお隣なの」
「隣の家に越してきた子なんだよ」
麗奈は、その時から、沙紀を敵対視するようになった。
ただでさえ、転校生は何かと人気がある。周りから気にかけられ、チヤホヤされる。加えて嫉妬心。家が隣同士なら、行きも帰りも一緒じゃないか。学校から見れば、恭一郎とは反対方向に住んでいる麗奈だったので、それが悔しかった。
敏感に同志を嗅ぎわけた二～三人の女子が、麗奈の周りに自然と集まった。転校生という響き、男子にも女子にも受けが良さそうな性格、整った顔、そして、恭一郎と家が隣同士ということに、その女子たちも微妙に嫉妬していた。
翌日から毎日のように、麗奈と仲間たちは、沙紀に執拗に絡んだり、あれこれ仕掛けたりした。その都度、恭一郎や他のクラスメイトが沙紀を庇ったり、注意してくれたり、時には大場に諌められたりもしたが、麗奈と仲間たちの態度は全然変わらなかった。
三組でクラスが違う碧は、麗奈たちの行動に加わることはなかったが、沙紀に執着する麗奈が、どこか遠いところへ行ってしまったようで、別の意味で沙紀が気に入らなかった。
ついこの間まで、いつも二人一緒で、それがとても楽しく幸せだったのに、今の麗奈は、沙紀のことばかり考えているようで、それが碧には不満だった。自分の一番は麗奈、麗奈の一番は自分。ずっとそう思ってきたのに、それは大人になっても変わらないと思っていたのに、沙紀の出現で崩れ始めている。碧は「麗奈の隣の自分の場所」が、沙紀に盗られてしまう感じがして、攻撃しない代わりに、いつも冷たい視線を遠くから送っていた。
一方、絡まれる理由がわからなかった沙紀は、麗奈たちの態度に、最初は困惑して悩んだりもした。新しい環境に慣れるまでは多少の緊張感を持っていたので、体も心も余計に疲労したが、恭一郎がフォローしてくれるだけで、沙紀には勇気が湧いて出た。
元々、クラス替えで新しい雰囲気だった教室内が、ゴールデンウィークも過ぎて、半袖でも寒くない気温の頃になってくると、しっとりと、一つのまとまりを見せた。
沙紀も教室内の変化と共に、クラスに溶け込んだ。おとなしそうに見えて、実は勝ち気な性格だったので、クラスに馴染んで自分のペースを取り戻すと、理不尽な麗奈たちの「挑戦」に、真正面から果敢に立ち向かって行った。
沙紀に敵対していた麗奈以外の女子は、麗奈と対等にやり合う沙紀に、逆に好感を覚えるようになって、一人二人と、次第に麗奈から離れていった。仲間といっても麗奈のパシリに近かったので、バカらしくなったというのもある。
一学期が終わる頃には、すっかり麗奈の仲間は消え、沙紀対麗奈の、一対一の構図が固まった。
六年生になって、五年の時より回数は減ったが、相変わらず絡んでくる麗奈に、今日も沙紀は立ち向かって行く。
だが五月中旬の修学旅行以来、一年前とは少しばかり違う気持ちで、沙紀は麗奈の相手をしていた。京都と奈良への一泊旅行で、麗奈の仲間だった一人の女子と同じ班になった。その子から、こっそり聞いた話。
「麗奈ちゃんてね、自分からは言わないけど、たぶん…」
そう言われてみれば、直接、間接に関わらず、何らかの形で恭一郎が関係していると、麗奈の絡みもキツイ感じだ。
（高嶋さん、恭一郎くんのこと……？）
絡まれる理由がなんとなく判って、それまでは「意地悪な、嫌な子」だった麗奈のことが、可愛く思えるようになった。ささやかな親近感も、持つようになった。
同時に、自分の中の恭一郎に対する想いにも、はっきりと気が付いた。麗奈は恭一郎のことが好き、と聞かされた時、胸の奥に小さな痛みが走った。キュンと締め付けられるような痛みに、自覚した。自分も恭一郎のことが好きだ、ということを。あの日の不思議体験だけでない、日々の関わり合いの中で、沙紀は恭一郎に好意を寄せるようになっていた。
恭一郎は、というと、好きという意識はなかったが、気になる存在として、沙紀が心に住み着いていた。不思議体験を共有した仲といっても、最初は、新しい環境に緊張している沙紀を気遣っていただけだった。麗奈の攻撃から放っておけずに手助けするうち、自然と気になる存在となっていた。
図らずも麗奈は、自分で、自分の好きな男の子とライバルとを結びつけてしまっていた。そのことには、もちろん麗奈は気付かないでいたが、二学期になって、別のことを思うようになった。
沙紀とやり合うことが楽しい。今は嫉妬心よりも、沙紀と張り合ったり競争したりして、手応えを楽しむために絡んでいる気がする。そうして、一歩下がって沙紀と恭一郎を眺めると、二人の間には言葉では説明できない「何か」があるように感じた。自分は割り込めない、何か、が。
冬、二学期の終業式も終わり、小学校生活最後の冬休みが始まった。テレビ局の特番が目白押しの中、バラエティ特番の一つに、前世の謎を扱った二時間番組が年末に放映された。お笑いタレントの起用で、神秘的なイメージは少なく、面白おかしく作られた番組だったが、その二時間に魅了された少女達がいた。
本当に前世というものがあるなら？ 沙紀は不思議体験から、ひょっとしたら恭一郎とは前世で何か、深い繋がりがあったのかもしれないと思った。
この番組を見るまでは、前世に懐疑的で、最初は小馬鹿にしていた麗奈も、沙紀と恭一郎の間の「何か」は、もしかしたら「前世」ではないだろうか？ と麗奈は前世の存在を信じ込み、自分と沙紀との間にも、前世の因縁があるのではないかと思ってしまうほどだった。
年が明けて、正月。沙紀は家族で、市内にある母の実家に来ていた。
家の中での遊びは飽きたので、姉や従姉妹たちと、歩いて近所の本屋へ行くことになった。
本屋で沙紀は、前世に関する本を探した。何冊か手に取ってパラパラと読んでみる。一番詳しそうな本は、ちょっと重くて値段も高かったが、お年玉を使えば買えると思い、決心して、一旦戻した棚からその本を再び取ろうとした時、誰かの手も同時に伸びて、触れ合ってしまった。
「高嶋さん？」
「げっ、藤岡沙紀！」
父親に無理を言って、遠くの本屋まで前世の本を探しに来ていた麗奈は、偶然の出会いに気まずい思いをした。しかも、同じ本に手を伸ばしたのだ、同じ前世の本に。
「高嶋さんも前世に興味あるんだ！ へぇー、意外」
「わっ、わっ、悪い？ 柄じゃないって笑えばいいわよ！」
顔を赤らめて、沙紀のことを睨みつける麗奈。
自分と同じように、麗奈が前世に興味を持っているらしいと知って、今まで以上に、麗奈に親近感を持った沙紀は、姉と従姉妹たちに、友達と会ったからちょっと外で遊んでくると伝えて、麗奈を本屋から引っ張り出した。
沙紀は麗奈と、じっくりと話し合いたかった。今がチャンスとばかり、本屋の出入り口の横にある自販機で、ペットボトルのお茶を買って、駐車場の隅に腰を下ろした。
沙紀と二人で話すことに抵抗があった麗奈も、雰囲気に流されて、沙紀の隣に座った。温かいお茶から上る白い湯気。
「高嶋さん、恭一郎くんのこと好きなんでしょ？」
いきなり直球で来た。麗奈は、またもや顔を赤くする。
「私も、恭一郎くんのことが好き。最初は、不思議な体験をしたから気になった程度だったけど、今は好きだって、はっきり言える。私ね、前世、信じてるよ。恭一郎くんと出会えたのも、前世と関わりがあると思ってる」
直球の後、何が来るのか警戒していた麗奈は、沙紀の、とんだ「ライバル宣言」に、毒気を抜かれた。
「あんた、変わってるわね。私に言いたいことって、それだけ？ 今までの恨みとか、ひっどい悪口で責めるとか、もう止めてって言うとか。普通そうじゃない？」
「そう？ 私は思っていることを、言っただけだよ？」
麗奈は笑った。馬鹿にした笑いでなく、心底おかしかったからだ。計算も何もない、沙紀の天然な答え方が。
何で笑っているのか理解できなかった沙紀だったが、話せるチャンスをくれた運命に感謝していた。意地悪な、嫌な子じゃなかった。自分と同じ、恋する女の子で、前世も信じていて、とても気が合いそうな子。
麗奈の中でも、沙紀の評価が変わった。ほんの少し話しただけなのに、気の合う友達になれるような気がした。
恭一郎のことも、スッキリ諦める決心が付いた。
「好き、だった。初恋だったけど、もう、ずいぶん前から何とも思ってないわ。藤岡さんに絡むのが止められなかったのは、習慣みたいになってたから、つい。それに……」
沙紀と対峙する時の楽しさ、高揚する気持ちを、麗奈は思い切って告白した。
「あ、なんだ！ 高嶋さんも、そう思ってたんだ！」
自分も同じで、麗奈の挑戦に応えるのは楽しい、ウキウキする気持ちだったと沙紀も告白する。
「私も藤岡さんも、似たもの同士ってヤツ？」
「あはは、そうだよ、きっと、そうだよ！」
キャッキャと笑い転げる沙紀と麗奈。ほんの数分前まで、敵対していた仲だったとは、とても思えないくらい、急速に親密度が増していた。
どちらからともなく、差し出される右手。
「麗奈って呼んで。私も藤岡さんのこと、これからは沙紀って呼ぶから」
「うん、わかった。麗奈！」
二人の右手が、固く結ばれた。
三学期が始まって、敵対していた二人の様変わりに、一組だけでなく二組も三組も巻き込んで、騒然となった。
五年から持ち上がりで、六の一の担任を務めている大場も仰天した。口には出さなかったが、天変地異の前触れか！と思うほどの衝撃だった。
仲直りの話を最初に聞かされた恭一郎も、もの凄くビックリした。ありえない、と信じられなかったが、学校で実際に二人の仲を見てみると、何も違和感がないことに気付いた。
「私たち、きっと前世でも親友だったのよ」
「そうよね、でなければ、こんなに仲良くなれないものね」
だが碧の心は複雑で、しばらくは拗ねていた。
「麗奈と南沢さんの間に、私が割って入りたいとは全然思ってないの。二人の輪の中に、私も一緒に入れて欲しいの」
と沙紀に言われて、不思議と納得した碧。
自分と麗奈の間に絆があり、麗奈と沙紀の間にも絆があるなら、自分と沙紀の間にも、絆が出来るかもしれない。
「そ、それなら、別に、構わないわ。仲間に入れてあげる」
待ってましたとばかりの碧のその言葉に、麗奈は碧に抱きついた。
「ありがとう！ 碧なら、そう言ってくれると思ってた！」
スリスリと久しぶりに麗奈に頬ずりされる碧。二人でいた頃は、お互いによく頬ずりしたりされたりとやりあったものだが、クラスが別れたことと沙紀の出現で、この二年間は激減していた。碧は嬉しくなって、自分もスリスリと麗奈に頬ずりを返す。
「これからは南沢さんのこと、碧って呼んでもいい？ 私のことも、沙紀って呼んで」
沙紀が碧に右手を差し出した。一瞬の躊躇の後、頷いて、そーっと右手を出す碧。沙紀と碧の手も、固く結ばれた。
サキの魂が出会った、麗巳の魂と、碧子の魂。その後、氷室今日子の魂にも出会い、四人は生涯を通じての、かけがえのない友として、喜怒哀楽を共にしていった。
＋＋＋『巡る時間（とき）の輪～遠い過去の記憶２』おわり＋＋＋