それぞれが希望の高校に通い出して、半年近くが過ぎた。沙紀はＯ市内にある、自宅から自転車で二十分ほどの公立校へ。恭一郎は電車で隣のＮ市の外れにある公立校。麗奈は中学から引き続いてＮ市を越えてＭ市にある私立校の高等部へ進級し、碧はＮ市と反対に位置する隣のＲ町にある公立校に通っていた。
二学期が始まり、残暑と秋の涼風が同居する九月半ば。
秋といえば体育祭、文化祭が盛んに行われる季節。沙紀の通う学校も二学期が始まった直後から、九月末の体育祭に向けて慌ただしく準備が進められていた。三年生の先輩たちの指令を受けて、二年生や一年生は否応なく色々と競技に駆り出されるのだが、沙紀には100メートル走の選手と応援団のチアガールが任命された。放課後遅くまで、休日も返上して練習に駆り出されていた。
体育祭の当日、沙紀の走る姿、更にポンポンを持って踊る姿に興味を持った二年生男子がいた。彼にとって沙紀は好みの容姿をしていたらしく、すぐに聞き込みを始めて沙紀の名前とクラスを突き止め、早速週明けの月曜日、放課後に沙紀を呼び出し告白してきた。体育祭は金曜日だった。彼が沙紀を見初めてから３日後のことだった。
「それで俺に、どうしろと？」
夕方、部活のサッカーから帰ってきて、部屋で沙紀が待っている事は、よくあることだった。嬉しくもウザイ時があったりする恭一郎だが、いつもの他愛ない話や、苦手な英語の問題などとは違った今日の相談は、恭一郎にとっては非常にイラつくものだった。
イラつく原因は、疲れた体で聞かされたからか、それとも別の理由があるからか。自然と恭一郎の態度は、憮然としたものになり、突き放すように沙紀に問い返した。それで俺に、どうしろと？ と。
沙紀は不機嫌な恭一郎の顔をチラチラ眺めながら
「だって、そのー……、コクられたの実は初めてだし、コクられて、すぐにデートの申し込みもされて、私、どうしたらいいか、わからないんだもん」
沙紀は困っていた。初めての経験。だからいつも一番に相談に乗ってくれる恭一郎のところへ来たのだが……
「あのなぁー、おまえ自分のことだぞ？ おまえの気持ち次第だってこと、わかってるか？ 俺に相談されても……」
憮然とした態度に更に拍車が掛かった恭一郎は、沙紀を強引に部屋から押し出した。
「悪い、今日はバテバテだから」
ドアを閉めると、沙紀が再び入ってこられないように背を向けて、ドアにもたれかかった。
「ごめん、変なこと相談しちゃって。自分で決める、うん、決めちゃうんだから」
沙紀はドア越しに、口を尖らせて答えた。男の子にコクられた。こんな事を言えば、どういう態度を見せてくれるのだろうか？ ちょっぴり甘いことを期待していた沙紀は、腹立たしさでドアを蹴りたい気分と、甘い思いが苦くなった哀しさと、自惚れだったのかもという自己嫌悪が混じり合った、複雑な感情を胸にしまって、自分の家に帰った。
それから沙紀と恭一郎は意識的に互いを避けて、顔を合わせることなく、次の日曜日になった。
部活の練習試合でＭ市の学校に行った帰り、恭一郎は同級生と二年生の先輩とで、Ｍ駅の駅前にあるハンバーガーショップに立ち寄った。
道路に面した窓側の、６人掛けテーブルを陣取って、足りない分は隣からイスを移動させて、各人思い思いのセットメニューのバーガーやフライドポテトをパクついていると、窓側を向いてイスに座っていた一人の二年生が、窓の外に知人らしき人物を見つけた。駅前の交差点で信号待ちをしている一組のカップルの、男の方。
「あれ、植村じゃねーか？ 黄色のシャツにジーパンの女と一緒にいる、黒ジャケの、さわやかクンを装ってるヤツ」
窓に背を向けて座っていた、もう一人の二年生が、後ろを振り向いて確認する。
「あー？ そだな、髪型ちょっと変わってるけど、植村だ」
先輩たちの、微妙な声のニュアンスから、何かありそうだと一年生は激しく興味を持った。恭一郎も、黄色いシャツの女が沙紀でなければ、他の一年生と同じように、ただの興味本位で軽く聞き流す程度だったのだが……？
「誰です？ 先輩。どこかの有名人？」
恭一郎はポーカーフェイスで表情を変えず、さり気ない感じで相手の事を詳しく聞き出そうとする。
「有名人といえば有名人だよな。なぁ、裕介？」
「そ、そ、タラシで有名、だったよな」
えー？ タラシって女たらしッスかぁ？ と一年生たちはザワザワ、益々興味を引いたようだ。
「俺たち、あいつと同じ中学だったから、よく噂を聞いたんだよ。特に照幸は三年の時、同じクラスだったからなぁ」
「あいつに泣かされた女子、何人いたことやら」
「デキちゃった子も、いたって話だぞ！」
「高校行ってからも相変わらずだって、この前聞いたぞ」
「今一緒にいるあの子も、そのうち泣くハメになるんだろうなぁ、かわいそうに」
二人の先輩の話は、恭一郎の胸にグサグサ突き刺さる。
信号が青に変わって、噂の植村と沙紀は道を渡り、駅構内に入って行った。話の対象物が消えたので、話題は自然と別の方向へと流れていった。
同級生の何人かは、恭一郎に「幼なじみの女子」がいることは知っていたが、顔までは知らない。それが今、植村という男と一緒にいた女の子とは、夢にも思わないだろう。
恭一郎は喉に通らなくなったハンバーガーやポテトを、コーラと一緒に流し込んだ。なぜか苦かった。家へ帰ってからも、心の奥に、何か鉛のような重たい気持ちを感じ、いつもは寝付きのいい恭一郎も、この日の夜はなかなか寝られずに、何度も何度も寝返りを打った。
新しい月曜日、沙紀は学校の委員会活動を終えると、真っ先に家へ帰り、小さな赤いチェックの紙袋を持って、恭一郎の部屋へ行った。昨日、植村聖（きよし）と一緒に映画を見た帰りに、買ってきた携帯ストラップ。サッカー少年がボールを蹴っている、小さなマスコットが付いたストラップ。
部屋で待っていた沙紀の顔を見た途端、一週間前と同じように、憮然となる恭一郎。ストラップをどこで買ったか聞かされて、更に憮然に拍車が掛かったのも同じだった。
あいつとデートした帰りに、買った物なんか！ ……いや違う、あいつとデートした事自体が、気に入らないんだ！ 鉛のような重い気持ちの原因に気付いた恭一郎は、沙紀相手に爆発しそうだった。
「帰れよ。今の俺、何するかわからないぞ」
鞄をベッドの上に投げ出し、自分はイスに座ると、クルッと回転させて、沙紀に背を向ける恭一郎。
「いいもん。何されたって、恭くんに、なら」
後ろから、恭一郎の背中に抱きつく沙紀。
「ば、ばかっ！ 帰れよ、帰れったら！」
沙紀の腕を自分の体から無理矢理はがすと、やはり一週間前と同じように、沙紀を強引に部屋から押し出す。
「バカは、どっちよ！」
沙紀も一週間前と同じように、ドアの向こうで口を尖らせる。違っていたのは、沙紀の瞳が潤んでいたことだった。
「また追い出されちゃったの？」
恭一郎の妹、成美が、自分の部屋から出て来て、心配そうに沙紀に話し掛けた。成美も小学六年生。男と女の色恋沙汰には敏感な年頃で、実の姉同様に接してきた沙紀に、同じ女として気を遣ったのだった。母の清音も二階に上がってきた。
「ドアの大きな音がしたから、もしかしてと思ったら、やっぱり？ ごめんね、沙紀ちゃん。なーんか、ここ最近、機嫌悪くて困っちゃうのよ」
「いえ、いいんです。お邪魔しました」
潤んだ瞳を悟られないように、沙紀は足早に家に帰った。
「こっちこっち、沙紀！」
先に来て、オレンジ色のテーブルの一つで、ドーナツセットを食べていた麗奈と碧が、店内に入ってきた沙紀を手招いた。金曜日の放課後。ドーナツがおいしい、Ｏ市中央駅の西口前にあるカフェテリアで、沙紀は麗奈、碧と待ち合わせしていた。
「ごめん、呼び出しといて。部活抜けるのに、苦労しちゃったのよ。今日に限って顧問の先生、来るし」
麗奈と碧は、沙紀の言葉より、沙紀と一緒に来た連れに注目していた。
「こちら、立花今日香さん。同じクラスで、部活も同じ新聞部なの。抜けるの手伝ってくれたし、あなた達とも気が合うと思って、連れて来ちゃった」
沙紀は同じ学校の友達、立花今日香を紹介した。
「初めまして、立花今日香です。よろしく！」
初対面の相手に、自分の顔写真が入ったプリントシールを渡したり、携帯電話の番号、メールアドレスを教え合ったりして、一通り自己紹介が終わると、沙紀も今日香もドーナツセットを注文してきて、本題に入った。
「えぇー？ キスもまだなのぉ、うっそー！」
麗奈が目を丸くして、声のトーンも高らかに叫んだ。
「麗奈、声大きいってば！ でも、確かに意外だわ」
周りの注目を浴びて焦る碧も、基本は麗奈と同じ感想。
「あたしも驚いた！ 学校では恋の話、一度もしたことないから、気付かなかったけど、そうだったんだぁ」
学校では見られない、沙紀の意外な一面を見て、今日香は素で驚いた。
「あんたたちなんて、とっくの昔に、ヤッちゃってると思ってたわよ。それがキスも、まだなんて、ねぇー？」
信じられないと言った顔つきで、ミルク濃いめの、店オリジナルコーヒーを飲みながら、麗奈は沙紀の顔を見つめた。
「麗奈、お下品だよ、ヤッちゃってるだなんてー。デキてる、とか……それも品ないか」
碧はチョコのたっぷり掛かったドーナツをほおばる。
「私、よく知らないから、こんなこと言うけど……。沙紀には酷いと思うけど……。彼、本当に沙紀のこと好きなの？」
今日香が完全な「第三者の立場」で聞く。
「嫌いってことは、まず、有り得ないっしょ？ 身近に居すぎて言い出しにくいとか、まぁ、自分の本当の気持ちに気付いてないってことは、あるかもしれないけど」
「何とも思ってなかったら、他の男のことで、機嫌悪くなる理由もないじゃん？ 大いに気になるから機嫌悪くなるわけで、イコール、好きってことでしょ。何てったって、不思議体験した仲なんでしょ？」
麗奈も碧も、今日香の問い掛けを否定する。
「不思議体験？ 何それ？」
今日香が沙紀に再び問い掛ける。沙紀は顔を真っ赤にしながら、恭一郎と出会った瞬間の、何とも言えぬ「懐かしい感覚」を話した。
「前世から、赤い糸が繋がってる、とか？」
今日香は茶化して赤い糸を持ち出したつもりだったが、当の沙紀は本当に、そうだったらいいな、と口にした。
ああだこうだ、と意見を出し合って結局、沙紀から、はっきりと告白しないと進展は無理なんじゃないか？ という結論に達した。その後すっかり今日香と意気投合した麗奈と碧は、駅横のゲーセンでプリントシールを何種か撮って、会合はお開きになった。
十月も中旬の日曜日、貸しっぱなしの英語の参考書を返してもらおうと、珍しく恭一郎の方から沙紀を訪ねた。
「あらー、恭くん。ごめんねー、ついさっき、沙紀は出掛けちゃったのよ」
沙紀の携帯でなく、家の電話に男の子から連絡があって、Ｎ市川添町にある喫茶店『らびりんぐ』に行く、と母の美波に告げて自転車で出ていった。
参考書なら、と美波は恭一郎を連れて沙紀の部屋へ行く。しばらく来ていなかった沙紀の部屋。机の上に、この前のストラップが置かれていた。ストラップを見つめる恭一郎。
川添町なら市境だから、自転車でも三十分くらい走らせれば行ける。駅と離れているので、かえって自転車の方が行きやすい。喫茶店は幹線道路沿いに一軒あるだけだ。前は二つあったが、一つは春頃に潰れた。
男の子、というだけで、恭一郎にはピンと来た。植村しかいない。中学時代から自分以外の男の話題など、したことなかった沙紀。冗談は言い合っても、不用意に男を近付かせないことは、自分が一番、よく知っている。家の電話だったのも、まだ携帯の番号を教えていないからだろう。
川添まで出掛けてくる、と玄関から叫んだだけで、庭先に置いてある自分の自転車を出すと、英語の参考書を前かごに放り込み、恭一郎は疾走した。
喫茶店『らびりんぐ』の店内、静かなＢＧＭを遮るように大きな音をさせてドアを開け、恭一郎が息を切らせて入ってきた。間を入れず、大声で沙紀を呼ぶ。
「沙紀！ いるんだろ？ いるなら返事しろ！」
普段では考えられない非凡な出来事に遭遇して、店員は「いらっしゃいませ」の声を掛けることすら忘れ、ポカーンと恭一郎の顔を見たまま、固まってしまった。
店内にいた十人ほどの客も、一斉に出入り口に注目した。
出入り口すぐの窓際の、二人掛けテーブルに座っていた男と女も、他の客と同じように驚いて、恭一郎の方を見たが、理由は他の客と異なった。大きなドアの音でも、大声でもなく、叫んだ「名前」に、敏感に反応したのだった。今では特別珍しい名前でもないのだが、二人にとっては強い思い入れのある名前。男も女も互いに口には出さないが、今までも街中でその名前を聞くと、ふと足を止めて呼ばれた名前の持ち主を探してしまうくらい、思い出深い名前……
沙紀は一番奥の壁際席に、出入り口とは背を向けて座っていた。向かい側には、やはり植村。突然のことに声も出せずに、恭一郎の方を振り向く沙紀。
沙紀の居場所を確認した恭一郎は、店内の誰の視線も気にせずに店の奥まで行くと、沙紀の右手を力強くつかんで引っ張った。
「帰るぞ。こんな奴とは、付き合わなくていい！」
沙紀は言われるがままに、恭一郎に引っ張られていく。
「すみません、お騒がせしました」
恭一郎は、固まったままの店員に一礼して謝った。沙紀もペコリと客たちに頭を下げ、二人で店を出て行く。
沙紀と恭一郎が出て行くと、客の興味は当然のように、今度は植村に移った。多くの視線を感じて我に返った植村は、慌てて会計を済ませ、あたふたと二人の後を追った。興味対象を失った他の客は、相手との、あるいは仲間との談笑を再開し、店内は静かにＢＧＭが流れる、ほんの二～三分前の状態に戻った。
「あなたも、ビックリしたんでしょう？」
沙紀の名前に反応した男と女の、女の方がニヤッと笑って男に言う。
「お互い様、なっ」
沙紀と一緒に自転車で帰ろうとする恭一郎を、素早く植村が塞ぐ。そんな駐車場でのやり取りを窓越しに眺め、男は目を細めた。三人の姿が、かつての自分と惚れた女と、惚れた女が選んだ男に重なった。
外を眺める男の視線が先程の三人を追っていることに気付いた女は、目を細め微かに口もとも緩めている男に、思い出し笑いは…と言いかけたところでテーブルに置いてあった自分の携帯電話が鳴る。
「そう、良かったわ。ご苦労様。じゃあ、三十分後に、青い橋の所で」
女が終話ボタンを押して携帯電話を折りたたむと、男はマジシャンのように、サッと財布と車の鍵を出した。
支払いを済ませ領収証をもらって店の外へ出た男は、先に出た女が何やら不審な行動をしているので、小声を掛けた。女は店の裏手を指差す。
「おやおや、さっきの青春三人組、まだ揉めてたのかい？」
場所を店の裏に移して、恭一郎と植村が睨み合い、沙紀は庇われるように、恭一郎の後ろにいた。雰囲気からして、一触即発の状態だった。
「眺めてるだけか？ それとも…」
「大人の出る幕じゃないと思うけど、雰囲気怪しいし、このまま見過ごすのも、なんか後味悪いような、ねぇ？」
男と女が、どうしようかと考えていると、恭一郎が凛々しく見栄を切った。
「沙紀は俺の女だ！ 俺の女に手を出すな！」
その一言で、プツンと糸が切れた植村が、恭一郎目がけて拳を振る。恭一郎は沙紀を自分の後ろに押しやった。不意に押された反動で、沙紀はバランスを失って膝をついた。
恭一郎は植村の拳を左頬に受けた。赤くなる頬を左手で押さえる。やられた怒りで、恭一郎の瞳がギラリと光る。
「恭くん……、恭一郎！」
あらー、始まっちゃったよ、と止めに入ろうとした男と女は、沙紀の叫んだ名前に驚愕して二人とも動けなくなった。聞き間違いではない、確かにサキという名の少女が叫んだ少年の名はキョウイチロウ。動けないまま二人は顔を見合わせた。
偶然にしては、出来すぎている。出来すぎてはいるが、やはり、これは、ただの偶然なんだろう。それこそ、天文学的な数字の確率の。男も女も深呼吸を一つして心を落ち着かせると素早く走り出した。
「ストーップ、怪我してからじゃ遅いぞ」
男が、反撃に出ようとしていた恭一郎の拳を片手で易々と受け止めた。瞬間、ほんの刹那な一瞬、男の耳に懐かしい声が聞こえたような気がした。心臓が高鳴り激しく動揺したが、しかし男はそれを隠し、平静を装ってケンカの仲裁に入った。
女の方も、その場に座り込んでしまった沙紀を助け起こそうと、沙紀の肩に手をかけた瞬間に、男と同じ経験をした。女は我を失いそうになった。馬鹿な、そんなことは有り得ない話だ。気を取り直して、沙紀に声を掛ける。沙紀は大丈夫と言いながら一人で立ち上がった。
大人の、それも「出来そうな」男に間に入られて、即座に不利を感じた植村は、今日は調子が悪かったなどと負け惜しみを言って逃げていった。
「おっさん、余計なことを……」
「恭くん！」
ケンカを止められて、ふて腐れる恭一郎を窘める沙紀。
「ごめんなさい、助けてもらったのに。どうもありがとうございました！」
深々と頭を下げる沙紀。恭一郎も、申し訳程度に頭を動かした。男と女は何も言わず、二人に笑顔を残して駐車場へ消えて行った。
偶然というより、奇跡だと、車に向かう男と女は、改めて思った。サキという名と、キョウイチロウという名と。しかも、あの瞬間の衝撃は……。
左ハンドルの車、男は運転席に、女は助手席に乗り込んだ。男は、無言でエンジンを掛ける。
「あれから、何年経つのかしら。残暑の残る、九月の……」
走り出した車の中で、女は胸の内に秘めていることが我慢できなくなって、喋り始めた。
「名前のせいかな。ちょっと……」
女は苦笑いしながら、男に、今体験した「有り得ない話」をした。我ながら馬鹿な事を言う、と女は照れ笑いする。
男は静かに女の言うことを受け容れ、自分も同じ体験をしたと、女に話す。目を丸くして男の顔を見る女。
「俺は前世とか生まれ変わりなんて信じてないが、世の中には、そう思える出来事もあるんだな」
「あたしもそう。輪廻転生なんて宗教の中だけに思っている。けれど全否定はしないでおこうと思ったわ、今の出来事で」
二人の心に、友の思い出が甦る。
「少し遅くなってしまったわね。佑希と麗華が待ちくたびれているかも」
女の言葉に、男はアクセルを踏み込んだ。
幹線道路の端を、並んで自転車を押しながら帰る、沙紀と恭一郎。
「さっき言ったこと、本当？」
「何…を……？」
「沙紀は俺の女だ、俺の女に手を出すな、って」
恭一郎は足を止めた。
「ああ、そうだよ！ 俺は沙紀のことが好きだ。初めて会った、あの日から、きっと好きだったんだよ！ 誰にも渡したくない、俺は沙紀が好きだ、大好きだっ！」
恭一郎の告白を聞いた沙紀は、感極まって、ポロポロ大粒の涙を流した。
「恭くん……、私も……、私…も……」
「恭くんじゃなくて、恭一郎って。さっきみたいに恭一郎って、呼び捨てにして欲しい。沙紀、おまえには、そう呼ばれたい」
涙の止まらない沙紀の顔を自分の胸に引き寄せる。
五年前、初めて会った時は、そんなに変わらなかった二人の背丈。でも今は、はるかに恭一郎の方が高かった。多くの車が行き交う中で、二人の唇が静かに重なった。
＋＋＋『絆は固く強く～遠い過去の記憶３』おわり＋＋＋
遠い過去の記憶シリーズ《完》