そうだったらいいのにな Episode 2「２回目のプロポーズ」
肩の傷口も閉じて抜糸も終わり、ある程度の自由が利くようになった頃から、神の希望で脳神経外科分野の診療も進められた。
記章クリニックでの診断内容を覚えている限り、神は警察病院の脳神経外科医に話し、医師は一つ一つ神に確認を取りながらカルテに書き留めていく。
「そうですか…。野崎教授といえば日本でも指折りの、脳外科の権威者でしたから…。記章クリニックに問い合わせて、あなたの資料を送ってもらいます。その上で、もう一度、精密検査を行います」
視神経を圧迫している血塊を取り除けば視力は元に戻る、と記章クリニックで野崎教授の診断を受け手術を決意したが、手術直前で“猫”に野崎教授を殺された。二度と見えない、とその時は覚悟した神だったが、しかし、なぜだか次第に見えるようになり、時々霞んだり軽い頭痛はあったものの、梁山泊へ潜り込む時には、ほとんど元通りになっていた。
現在では頭痛も消え、霞むこともなく見え、視力もマカオで重傷を負う前の数値にまで回復している。もちろん眼球自体にも何ら問題ないことは、眼科の検査で証明されている。脳外科の検査結果次第では、手術しないで済むかもしれない、とも言われた。
「手術しないで済むといいね。体の負担が減るもの。それにさぁ、『丸坊主の神』 なんて、笑っちゃうよ」
想像して、ケタケタ笑い転げるサキ。
「笑ったな！ 『猫』が嗅ぎ付けなければ、手術していたんだぞ。今度の検査で、やはり血塊が認められ手術した方が良いと言われれば、従うつもりだ」
「じゃあ『トレード・マークの長い髪』は？」
「これか？ 三年もあれば元に戻るし、『猫』を葬り去った今、固執しないね」
神は視線をチラリと毛先に移し、薄く笑みを見せた。地底での三年間。あの時の“憎悪”も、今は浄化された。
「固執しないって、どういう事？」
何も知らされていないサキは、その深い意味が分からない。
「折を見て話すさ。それに、おまえは『短い髪』が、好きじゃなかったのか？」
まだ長髪だった頃の野分三平に、サキが言った言葉。
「もうっ！ 昔の事、引っ張り出してきてっ！」
サキの頬が、プクッと膨れた。
数日後、記章クリニックから届いた資料を基に、レントゲン撮影やCTスキャンなどの詳しい検査が行われた。その結果は、血塊の消滅。視神経を圧迫していたはずの血塊は跡形もなく消えているというものだった。手術して取り除かなければ無理だったはずなのに。本当に、血塊は消えてしまったのか？
「血塊の移動も見られません。きれいさっぱり消滅しています。打撲のアザや血マメと同様に、周りの組織に吸収されたと考えられます」
神の体の“自然治癒力”が長けていたということか？ 検査結果を一通り説明した脳外科医は、付き添いの看護婦と共に、次の回診先へと移動して行った。
「坊主頭に、ならなくて済んだねぇー」
医師たちが出ていった後、ベッドの端に腰掛けて、神の顔をのぞき込み、サキは、いたずらっぽく笑う。
「おまえ、面白がってるな。そんなに俺を坊主にさせたいのか？ おまえこそ、その長い髪…」
神の指が、サキの髪に絡む。
「やだよっ！ あたし、これが気に入ってるんだから」
とっさに立ち上がって“あかんべぇー”するサキ。
「……シャンプー代、スガが嘆くのもわかる気がする」
月々の会計でギリギリの時など、シャンプー代がやり玉に挙がることがある。自分の髪、サキの髪、洗うには確かに量が要る。もっとも言ったスガ本人も髪は長い方なのだが。
「今までだって、同じでしょ。気にしない、気にしない。それとも、この際、バッサリ切っちゃう？ 坊主じゃなくても角刈りとか、坊ちゃん刈りとか、いっそのことパンチ君とか？」
サキは完全に面白がって両手で髪型のジェスチャーをし、それに合わせて表情も変え、あれこれと“提案”する。そんなサキを黙って見つめていた神は、ゆっくり上体を起こした。
「サキ…話がある」
「あ…怒った？ ごめん」
さすがに冗談を言い過ぎたかとサキは反省したが、そうではなかった。神の口から出た言葉は怒りではなく。
「改めて、その……プロポーズしたい」
一瞬の静寂。
「なっ、何？ い、今さら…」
思いも寄らない単語。真顔で自分を見つめる、神の瞳。サキは神の視線から逃れようと顔をうつむき加減にそらした。神は言葉を続ける。
「あの時は、極限状態が言わせたもので…生と死との狭間で、後先の事も考えずに口走ってしまった。勿論『本心』に変わりないが…」
「だったら、もう…いいよ…」
その気持ちだけで充分。サキは少し後ずさりして、病室の壁に背を預ける。
「さっき、今さらと言ったな？ そう、今さら気づいたんだ。また眼が見えなくなったら…と」
サキの方へ体を向き直して、さらに神は言葉を続けた。
「日常生活は出来ても、仕事は難しい。見えないという事は、かなりのハンディキャップだ。おまえの負担になる」
美尾を守り切れなかった悔い。
「負担？ 見えなくても立派に『猫』と闘ったじゃないか！ それに、今は失明の心配は、なくなったんだから…」
思わず顔を上げ、“負担”という言葉を否定するサキ。神は首を横に振った。
「私が『猫』と闘えたのは、冷静に判断、行動が出来る美尾がいたからだ。おまえは、こうと思ったら突っ走るからな。私がサポートしないと危ない。眼が見えないと、それも出来ない。だから、失明の心配が無くなった今、私自身の『けじめ』として、正式にプロポーズしたい…。サキ、私の花嫁になってくれるか？」
神はサキに向かって左手を差し伸べた。サキは神の気持ちを理解し、体を壁から離すと、自分の右手を神の左手に重ねた。固く結ばれる手と手。神はサキを引き寄せた。
約束のキス。神は、今度は右手でサキの左手を取ると
「次は、婚約指輪だな。指のサイズ、測っておけよ。サイズがわからなければ、注文の仕様がない」
枕の下には、三ノ輪宝石店から取り寄せた、指輪のカタログが忍んでいた。
＜２回目のプロポーズ ＥＮＤ＞