そうだったらいいのにな Episode 4「聖なる約束 」
リハビリのプログラムを順調に進めてきた神に、やっと退院許可が下りたのは、街中にジングルベルのメロディーが鳴り響き、クリスマスセールが佳境に入ろうとしていた頃だった。
退院といっても、しばらくは週に一度、リハビリの仕上げに通うことになるが、梁山泊崩壊から、すでに３ヶ月が経っている。年内に退院できることで心の区切りもでき、過去を完全に吹っ切って、新たな気持ちで新年を迎えられることは、神には最高のクリスマスプレゼントだった。
医師から希望退院日を聞かれて、顔を見合わせるサキと神。看護婦がカレンダーをチェックする。
「24日なら日柄も良いし、クリスマスイブだし、どうですか？」
それを聞いて世話女房よろしく、サキが答える。
「じゃあ、それでお願いしま……あれ？ 24日って何かあったような……？」
ふぅ、やっぱり。肩をガックリ落として神が言う。
「……成績表をもらう日だ」
「あー、終業式だ。忘れてた。どーせ半日だし、サボっちゃ…」
神の厳しい“ＮＯ”の視線に気付くサキ。医師も看護婦も、クスクス笑う。
「午後からの退院なら、学校へ行けますね？」
医師が助け船を出した。サキは即座に頷き、神も、それなら…と同意した。
「じゃあ、24日の午後退院ということで、手続きしますね」
医師はカルテに日付を書き込んだ。
「良かった。お正月は事務所で迎えられるね」
サキは顔を輝かせてストレートに喜び、本当は、うれしくてたまらないのに、神は相変わらずのポーカーフェイスで、サキの言葉を受け止める。
「早くスガちゃんに知らせなきゃ。最近、ここから帰る度に『退院の話まだですか？』って聞かれて、なんか申し訳なくてさっ。きっと豪華な退院パーティーが待ってるよ。クリスマスイブってこともあるし」
「病み上がりの人間に、豪華もなにも」
「食べられるんだから、いいじゃない？」
「まあ…な。食べる方は……」
神は、ふっと、窓の方へ視線をずらし、ボソっと小声で言う。
「どうせなら……」
病室で二人きりになることが多いと、どうしても意識してしまう時がある。端からは“プレイボーイ”と呼ばれていても、それは表面的な遊びの範囲。神の方から深入りしたことは一度もない。
逆にサキに対しては“本気”だからこそ、神は慎重にもなるし“特別な心の高ぶり”も感じてしまうのだ。時折見せる、サキの何気ない仕草が、神には色香を匂わせた“大人の女”に見える時があり、まだ入院中、まだリハビリ中、という自分の状況を心の中の自分に必死に言い聞かせて、理性で“キス止まり”を固持しているのだが……。
「えっ？ 今、何か言った？」
神の“複雑な気持ち”など知る由もないサキは、帰り支度をしていて聞き逃した言葉を確かめようと神に聞き返す。神はポーカーフェイスで、平然を装って答えた。
「いや、別に何も言ってないぞ。空耳じゃないのか？」
「そうかなぁ？ 確かに何か聞こえたんだけど…まっ、いいか。今日は、これで帰るね。また明日！」
サキは病室を出ると、ロビーの公衆電話から、暗闇警視に連絡を入れ、退院の報告をし、スガの喜ぶ顔を思い浮かべながら、足取り軽く帰路に就いた。
12月24日、退院当日。かさばる荷物は昨日までにサキが持って帰っていたので、今日は身の回りの小物を詰めた、小振りのボストンバッグが一つ。
治療費は暗闇警視が“心配するな”と言ってくれたが、全額負担してもらうのは、やはり心苦しい。自らの希望でずっと個室部屋を使用していたので、差額ベッド代だけは自分で持つことにして会計を済ませ、それも、サキが持つと言うので、神は手ぶらで、３ヶ月住み慣れた病室を後にした。
、二人はタクシーに乗り込んだ。
「おかえりなさぁーい！」
自動ドアが開くと同時に、中から声が飛び出してきた。笑顔で神を迎える、スガと美鈴と聖子。そして、沼と由梨。さらに、樹真と暗闇警視も顔をのぞかせていた。
さすがの神も少し照れて、立ち止まってしまったが、サキに背中を押されて、一歩、中に入る。
「ただいま…」
神は１年９ヶ月振りに、自分の “家” へ帰ってきた。
午後３時頃に、二人が病院から帰ってきてから、約６時間。夜も９時を回り、クリスマスパーティーと婚約披露パーティーを兼ねた、神の“退院おめでとうパーティー”は、お開きとなった。
サキは昼間から、はしゃぎすぎたのと、気が楽になったことで早々と酔い潰れてしまい、今はベッドの中。
神は客人を見送った後、少し気疲れしたのか、ソファに横たわっていた。
後片付けを一通り終えたスガは、書類ケースの一番上の引き出しから、１枚の紙を取り出すと、ペンと一緒に神の前に差し出した。
神は、自分の真正面に座り、紙とペンを差し出したスガを見上げた。
「何だ？ これは？」
「誓約書です」
「誓約書？」
神は体を起こして紙を取り、書かれている文面に目を通した。
誓約書 私、神恭一郎は、思慮ある大人の男として、婚約者といっても、まだ高校生の麻宮サキに対して、決して淫らな行為はいたしません。 また、高校を卒業してからも、結婚するまでは、同様に清い交際を続けることを誓います。
神は、目がテンになった。
「これにサインしろと？」
スガは、ニッコリと微笑んだ。
「はい。美尾さんは、『神先生は、本命に対してはオクテだから』 って、いつも言ってましたけど、やっぱり心配ですから。同じ屋根の下に住む婚約者に、気軽に手を出せないことは、先生も辛いと思いますが、せっかくの卒業式に 『つわり』 でゲロゲロになったら、サキさんが一番辛い思いをすることになりますので、避けた方が良いと思いまして」
うっ。神は言葉を詰まらせた。しばらくの間、そこには静かな “沈黙の時” が流れた。しかし、卒業式に “つわり” が殺し文句だったのか？ ペンのキャップを取ると、今日の日付と名前を、１字１字ていねいに（まるで時間稼ぎかのように）書き込んだ。
「ご理解、ありがとうございます」
メガネの奥のスガの瞳が、キラーンッ☆と光った。
「それから、今日から私も、サキさんと一緒の部屋で寝起きしますので、こちらの方も、ご了承下さい」
スガは日付とサインをしっかり確認して、誓約書を事務所の封筒に入れると、自分の部屋へ持っていった。
「まるで……ヘビの…生殺しだな……」
スガの後ろ姿を見て、神は苦悩の溜め息をついた。理性で押さえるのにも限界があるんだぞっ！ と神は心の中で叫んでみたが、惚れた弱味というのもあって、サキを “大切にしたい” 気持ちも、本能以上にある。ここは、おとなしく、スガに従っておこう…と思った神だった。
「しかし、なぁ……。この理性、いつまで持つかなぁ……？」
暗闇警視の提案で、事務所から引き上げた６人は、２次会へ足を運んでいた。
「今頃、スガちゃんが、『例の物』 出してるよね」
美鈴が口火を切った。
「神さんには、お気の毒だけどねぇ」
聖子は “神の不幸” に同情していた。
「ヘビの生殺し状態だな」
暗闇警視は笑いながら、同じ“男”として、一般的な感想を述べ
「まぁ、それも修行」
と樹真は言葉では冷たく、でも口元はニヤリと笑っていた。
「わしらより、先を越されてはなぁ…」
沼は傍らの妻に同意を求め、由梨は
「そうじゃなくて、せっかく決まった 『卒業』 を無駄にしないため、でしょう？」
と軌道修正した。
聖なる日の、聖なる約束を酒の肴に、６人は深夜まで飲み明かした。
＜聖なる約束 ＥＮＤ＞