そうだったらいいのにな Episode 6「癒される心」～２：クロスオーバー～
スガは気になって、仕事が手に付かなかった。心配で何度も部屋の前まで行ったが、今は自分の出る幕ではないことが分かっていたので、その都度、思い直し引き返した。
サキが倒れてから１時間くらい経っただろうか。もう目を覚ましただろうか？ 倒れた原因は？ いろいろな疑問が頭の中を飛び交う。そこへ悲鳴が聞こえてきたのだ。一瞬でスガは掛けだした。
「どうしたんですか！？」
ドアを開けると、ベッドの上で悲痛な叫び声を上げて、パニック状態になっているサキを、神が抱きかかえていた。
「ああ、スガ。良いところへ来てくれた。サキに温かいミルクを持ってきてくれ」
取り乱しているサキを落ち着かせるために、神はサキを強く抱きしめると共に、駆けつけたスガにホットミルクを注文した。
「はっ、はいっ！」
スガは一足飛びにキッチンへ飛んでいった。
「落ち着くんだ！ サキ！」
神は幼子を優しく包み込むようにサキを抱きしめ、唇を重ねた。口づけされて、ようやくパニック状態から抜け出し、落ち着きを取り戻したサキは、そのまま、その身を神に預けた。
「あの子と、将来の俺たちの子供のことと、何が関係有るんだ？」
サキは、しばらく無言だった。神はサキが口を開くまで待った。
「……ワイドショーで言ってただろ？ るみちゃんの母親も、親から虐待されてた可能性があるって。虐待を受けた子供が大人になって親になると、自分の子供に同じように虐待する場合が多いって」
神の心は、鈍器で殴られたような苦しさを覚えた。普段の生活では気付けなかった。気付けないほど奥に押し込められていた “サキの心” は、未だに母親を引きずっていたのだ。
梁山泊で母親を乗り越えて来たから、と思っていたが、それは自分の勝手な思い違いだったと、神は痛感した。
「あたし……。もしかしたら……。母さんと同じ事…………」
サキの身体はガタガタと震えだした。神は、より強くサキを抱きしめ、何をどう話したらいいか、考えを巡らせていた。そこへスガが、人肌に暖めたホットミルクを持ってきた。
「カップが二つ？」
二つのマグカップが乗ったトレイをスガから受け取った神は、怪訝な顔をしてスガを見た。神はサキの分だけを頼んだつもりだったが？
「こういう時は、恋人同士、一緒に飲むものですよ」
先程と比べれば、だいぶ落ち着いているサキに安心したスガは、やはり自分の出る幕ではないと悟り、神にニッコリ笑顔を向けると
「また何か用があったら、呼んで下さい」
と言って部屋を出て行った。
「ほら、身体を温めれば、もう少し、心も落ち着くだろう」
神はトレイをベッド脇のサイドテーブルに置くと、カップの一つを持ち上げて、サキに差し出す。渡されたカップを両手で挟み込んで、カップから伝わる暖かさを両手で感じ、サキは一口、ミルクを飲んだ。神もサキに寄り添ってベッドに座り、カップに口を運んだ。
「確かに…。子供を虐待する親の多くは、子供の頃、やはり親から虐待を受けていたと言われている。だからといって虐待を受けた子供の全部が全部100％、同じ過ちを繰り返す訳じゃない。虐待を受けても虐待しない親になっている人間もいれば、虐待された経験がないのに自分の子には虐待行為をしてしまう人間だっている。言い換えれば、『虐待を受けた子供＝虐待する親』 ではない。分かるな？」
身体を丸めて、うずくまるサキは、カップを抱いたまま、コクリと頷いた。頷いたが……。
「でも……、親になっていない虐待児も、いるんじゃないのかな？ だから、100%じゃないっていう理屈も、有るんじゃないの？」
神は鋭いツッコミだと思った。親になっていないという可能性も有ることは否定できない。
「まぁ、それもあるだろうが、２極分化は出来ないだろう？ 大別すれば、虐待する親、しない親、親にならなかった、の３通りだな」
ミルクを飲み干した神は、カップを置いて、サキの肩を抱き寄せる。ミルクが、こぼれ落ちないように、そっと、優しく。
「じゃあ、なぜ、虐待を受けた子供が、虐待しない親になれたと思う？」
神はサキの顔をのぞき込んだ。
「いろいろな方法で、その心の傷を克服したからじゃないのかな？」
サキは上目遣いに神の顔を見た。
「いろんな……方法？」
「虐待に限らず、心の傷を克服するためには、身近な、信頼できる人間が必要だと思っている。夫婦なら配偶者が、それだと思うんだがな。俺は」
上目遣いに神を見るサキの瞳からは、不安の色が消えなかった。
「いろんな事情で片親だけの場合や、親を知らないで育つ子供もいるが、父と母、両親が揃っている場合は、子育ては夫婦二人の責任だ。血の繋がりが有ろうが無かろうが、育児は父と母の二人でするものだ。母親にしか出来ないことは、そうだな……産むことと、母乳だな。こればかりは、いくら父親が頑張っても無理だからな」
昔々の自分。確かに “その日” までは、両親の元で伸びやかに育ってきた自分。“その日” 以降の過去が悲惨なものであっても、サキの子供時代に比べれば、なんと自分は恵まれていたことだろう。神は、胸の奥が熱くなった。
「おまえが母親として苦しくなった時には、俺がフォローする。苦しくなったら、いつでも言えばいい。俺が受け止めてやる。だから、そうやって、二人で育てていこう」
サキの心は少し軽くなった。重圧感からは解放された。
「おまえが、俺を救ってくれたんだ。俺の心を癒してくれたんだ。お返しをしなきゃな。今度は俺が、おまえを救いたい。心が癒されるように。苦しみも悲しみも、一人で抱え込むのではなく、二人で分け合う。夫婦として、仕事のパートナーとして、一緒に生きていくには、とても大事なことだな」
神はサラリと言い流したが、サキには引っかかった。自分が神を救った？ 心を癒した？ いつ？ 自分の何が？ 見当がつかない。
「救ったって、あたしが？ いつ、どうして？」
「おまえの存在、そのものだよ」
自分の存在そのものが、いったい、どうやって、神の心を救えたのか？ とても理解できなかったサキ。
「いつか話さなきゃならないと思っていたが、今が、その時なのかもな……。ちょっと長くなると思うが、我慢して聞いてくれるか？ 俺の過去を」
「過去……？」
「ああ。俺の過去と、過去に関わった、二人の女のことを……」
神は決心して語り出した。生い立ち、組織 「猫」 との関係。それを語る上で避けては通れない、幼なじみだった鳴海聖良のこと。その後、探偵の仕事の中で知り合った、カテリーナ岩本のことを。
彼女たちとの出会いと “別れ” を重点的に、ゆっくりとした口調で語る。その間、サキは神の声に耳を傾け、その皮肉ともいえる “事実” を、胸が詰まる思いで聞いていた。
１時間近く掛けて語り終えた神は、サキ愛用の灰皿を借りて一服する。紫煙が、ゆらゆらと部屋の中を漂う。サキは、すっかり冷めてしまった飲みかけのミルクを一気に飲み干し、カップを神に渡すと、身体をよりいっそう丸めた。静寂が二人を包んでいた。
「エノラゲイ号が東京湾に沈んだ時、痛切に思った。俺は女を愛せない。女を愛してはいけない男だと。愛した女、愛していたかもしれない女を、この手に掛けただけでは足らず、知らず知らずに惹かれていた少女も失ってしまった。俺は呪われているんだ…と。だが、おまえは生きていた！」
神は微笑んだ。微笑んで、吸っていた煙草を灰皿に置くと、丸まっていたサキの肩を両手で起こした。
「大丈夫。おまえは、おまえだ。それに、もう、独りじゃない。沢山の仲間がいる。俺もいる。今から子育てを恐れて立ち止まっていては、いつか生まれてくる子供に、笑われるぞ」
「神……」
サキは神の胸に顔をうずめた。神はサキの背中をポンポンと軽く叩いた。
「そうだよね。あたしは、あたし。母さんじゃない。神も、父さんとは違う。見て見ぬ振りをするような、父さんとは違う」
サキは神の背中に手を回し、ギュッと抱きついた。神は優しく受け止めた。
「そろそろ、昼になるな。下へ行くか？」
時計の針は12時の少し手前だった。サキはベッドから出た。神は灰皿に置いたままだった煙草をキュキュッと消して、部屋のドアを開ける。階下から、ほんのり、いい匂いが漂ってきた。
「サキ……」
部屋を出ようとしたサキを、神は後ろから抱きしめた。
「愛している……」
サキは身体を神の方へ向き直した。
「神…………」
二人の唇が重なった。
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